この物語について

働き方が多様化する中で、現場のマネジメントには、これまで以上に「対話」が求められるようになっています。
この物語は、ワーキングマザーと、その上司とのやり取りを通して、“配慮”と“本音”の間にある難しさを描いたストーリーです。
ボリュームがありますが、少しお時間をいただいて、それぞれの立場について思いを馳せる時間をいただけると嬉しいです。


1. 戻ってきたはずなのに、元の場所ではなかった

夕方六時半。
保育園からの帰り道。
安西千尋は、片手に通勤バッグ、もう片方の手にスーパーの袋を持っていた。
袋の中には、豆腐、ひき肉、子ども用のヨーグルト。
献立は、まだ決まっていない。

隣では、子どもが眠そうにぐずっている。
「今日は、先にお風呂かな」
「いや、先にご飯を食べさせた方がいいかな」
「洗濯、朝までに乾くかな」

仕事が終わったはずなのに、頭の中では、次の段取りが次々と立ち上がってくる。
家に帰ると、もう一回、一日が始まる。
そんな感じだった。

夫も家事をしてくれている。
まったく何もしない人ではない。
けれど、お互いに余裕がなかった。

夜中、子どもがなかなか寝ず、洗濯物も畳めず、翌日の保育園の準備も終わらず、どうしても苦しくなって、接待中の夫に電話をかけて泣いたことがある。
「ごめんね、ごめんね、しんどい…」
その言葉を、自分が口にするとは思わなかった。

それでも、千尋は仕事に戻りたかった。
仕事一筋だった。
法人向けサービスの企画提案と顧客対応。
クライアントの課題を聞き、提案を組み立て、社内のメンバーと調整しながら形にしていく。
楽な仕事ではなかった。
でも、好きだった。

クライアントから頼りにされることも多かった。
「安西さんに相談すれば、何とかしてくれる」
そう言われることは、彼女にとって誇りでもあった。

子どもを産むなら、ある程度キャリアを築いてから。
そう思っていた。
けれど、思ったより授からなかった。

不妊治療を始めた頃、周囲には、子育てをしながら働いている女性たちがいた。
当時の千尋は、正直に言えば、少し冷たく見ていた。

子どもが熱を出して早退する。
保育園のお迎えで会議を途中退席する。
急な休みに周囲が調整する。

その姿を見ながら、心のどこかで思っていた。
自分で望んで産んだのだから、ある程度大変なのは仕方ないのではないか。

今思えば、何も分かっていなかった。

若い頃、千尋は生理痛がひどかった。
後に、子宮内膜症が見つかった。
立っているのも辛い日があった。
冷や汗が出て、会議室の椅子に座っているだけで精一杯の日もあった。

でも、同じ女性の先輩に言われたことがある。
「病院行ってるなら、大丈夫でしょ」
その時、千尋は思った。
女性の敵は、女性なのかもしれない。

あの人は、分かったつもりだったのだ。
そして千尋自身も、子どもを持つ女性たちの大変さを、分かったつもりで見ていた。

復職初日。

久しぶりに職場へ向かう電車の中で、千尋は少し緊張していた。

懐かしいメールの署名。
以前担当していたクライアント名。
社内チャットに流れる案件名。

戻ってきた。
そう思いたかった。

けれど、上司の杉本は、穏やかな顔で言った。
「今は後方支援で、ゆっくりしてくれればいいから」
気を遣ってくれているのは分かった。

無理をさせないように。
急に前と同じ負荷に戻さないように。
そう考えてくれているのだろう。

でも、その言葉を聞いた瞬間、千尋の胸の奥が少し冷たくなった。
案の定、戦力外通告をされたかのような気持ちになる日々も多かった。

育児をしながら仕事をするということは相当な犠牲を払っていると思う。
それゆえ、
「ここまでして、戻ってきたのに…」という想いが募る。

なかなか寝てくれず、睡眠時間が3時間に満たない朝も。
保育園へ急ぎながら化粧をした日も。
帰宅後、子どもの夕飯を作りながら、自分は何を食べたのか分からなくなる日も。
泣きながら夫に電話をした夜も。

全部越えて、ここへ戻ってきたのに。
私は、ゆっくりしたかったわけじゃない。
仕事がしたかった。

クライアントと話す時間。
相手の課題を聞き取る時間。
提案の方向性を考える時間。
ギリギリの調整を乗り越えた後の達成感。

あの仕事が、好きだった。

でも復職後に用意されていたのは、サポート業務中心の仕事だった。
資料の整理。
社内調整の補助。
他の担当者の後方支援。

大事な仕事だと分かっている。
けれど、千尋が戻りたかった場所とは、少し違っていた。
後になって、こういう状態を「マミートラック」と呼ぶことがあるのだと知った。
出産や育児をきっかけに、本人の意向を十分に確認しないまま、責任ある仕事や昇進の機会から遠ざかっていくこと。

もちろん、それで救われる人もいる。
少しペースを落としたい人もいる。
家庭を優先したい時期もある。

でも千尋は、そこへ戻りたくて、必死にここまで来たのだった。
かつて担当していたクライアントへ、復帰の挨拶をしようとした時だった。
社内の同僚が、冗談っぽく言った。
「せっかく千尋さんがいなくなって、みんながクライアントと話せるようになったのに。連絡されたら、また戻っちゃうじゃないですか」
千尋は曖昧に笑った。

相手に悪気がないことも分かった。
自分がいない間に、他の人が頑張ってくれていたことも分かった。
でも、帰り道、少しだけ泣いた。

戻ってきたはずなのに。
もう、元の場所ではなかった。

そんな頃、千尋は女性向けの研修に参加した。
女性だけの研修だった。

最初は少し身構えていた。
女性活躍、ありたい姿、キャリア。
そういう言葉は大事だと思う一方で、どこかきれいごとのようにも感じていた。

でも、ワークが始まると、空気は少し違っていた。
「帰ったら、夫がお尻掻きながらテレビ見てるんですよ!」
一人がそう言った瞬間、会場がどっと笑った。

「分かるー!」
「なんでこっちは第二ラウンド始まってるのに!」
「“今日何食べる?”って聞かれると、こっちが聞きたい!ってなる!」
「“言ってくれればやるのに”って、“管理する仕事”が増えてるんですけど!」

あちこちから声が飛ぶ。
「なんで家事って、“手伝う”発想なんですかね」
その言葉に、また笑いが起きた。

笑っているのに、泣きながら話している人もいた。
「昨日、子どもを寝かしつけた後、一人でキッチンで泣きました」

会場が少し静かになる。

でも誰も、
「頑張って」
とは言わなかった。
たぶんみんな、もう十分頑張っていることを知っていたからだと思う。

不思議だった。
愚痴を言っているだけなのに、少しだけ呼吸がしやすかった。

たぶん、
「自分だけじゃなかった」
と思えたからだ。
その研修では、不満を言うことも、ありたい姿を考えることも、同じくらい大切に扱われていた。

家族への不満。
会社への不満。
時間が限られていることを理解してほしいという願い。
もっと頑張りたい自分と、もう限界だと思う自分。

どちらも、否定されなかった。

そして同時に、講師は静かに言った。
「子どもがいることも、いないことも、それぞれの選択や事情があります」
「誰かの生き方を、簡単に分かったことにしないことも大切です」

千尋は、その言葉を聞きながら、昔の自分を思い出していた。
自分も、分かったつもりだったから。


2. 守っているつもりだった

杉本にとって、安西千尋は頼りになる部下だった。
ストイックで、責任感が強い。
クライアントからの信頼も厚く、難しい調整も最後まで投げ出さない。
無理をしすぎるところはあったが、それも含めて、彼は安西を高く評価していた。

ある日、安西から相談があると言われた。
「不妊治療をしていて、少し休みがちになってしまうかもしれません」
彼女は、言葉を選びながらそう言った。

杉本は、できるだけ落ち着いて聞いた。
本人の了承を得た上で、必要な範囲で部署内にも共有し、協力できる体制を作った。

通院で休む日があれば、他のメンバーがフォローする。
打ち合わせの予定も、無理のない範囲で調整する。
チームとして支えよう。

杉本はそう思っていた。
妊娠中も、千尋は仕事を続けていた。
体調を気にしながらも、責任ある案件を手放そうとしなかった。

妊娠七ヶ月頃。
帰宅中に体調を崩し、そのまま入院になったと聞いた時、
杉本は本当に心配した。
仕事どころではないだろう、と思った。
一ヶ月、会社を休むことになった。
無事でいてほしい。
ただ、それだけだった。

その後、千尋が復帰した時も、杉本は繰り返し伝えていた。
「とにかく無理しないで」
心からそう思っていた。

だから、育休を終えて千尋が戻ってくると決まった時、杉本はチームのメンバーと話した。
「いきなり前と同じ負荷は厳しいと思う」
「しばらくは、後方支援の方がいいんじゃないか」
「クライアント対応は、彼女が休んでいる間に他のメンバーも頑張ってきたし」
そうして、千尋にはサポート業務を中心に担当してもらうことになった。

杉本は、それが配慮だと思っていた。

子どもが小さい。
保育園の呼び出しもあるかもしれない。
睡眠不足もあるだろう。
無理をさせてはいけない。

「今は後方支援で、ゆっくりしてくれればいいから」
そう伝えた時、千尋は少しだけ笑った。
杉本は、安心したのだと思った。
でも実際は、その笑顔の奥にあったものを、見ていなかった。

復帰後、千尋は早い段階で、以前のクライアント対応に戻りたそうにしていた。
杉本は、それにも気づいていた。

けれど、そのたびに言った。
「任せて大丈夫だから」
「今は無理しなくていいから」
千尋がいない間、他の社員たちも必死にクライアント対応をしてきた。
その経験を無駄にしたくないという気持ちもあった。

それに、千尋に前と同じような負荷をかけるのは怖かった。
守っているつもりだった。

けれど、今思えば、
「どうしたい?」
と聞いたことはなかった。

数ヶ月後、杉本は管理職向けの女性部下育成研修に参加した。
正直なところ、最初は少し構えていた。

女性活躍。
目標の立て方・導き方。
ダイバーシティ。
生理や更年期。

大事なテーマだとは思う。
ただ、自分にどこまで分かるのか、少し不安でもあった。

研修の中で、女性講師が自分の体験を交えながら話した。

生理の辛さは、個人差があること。
病院に行っていても、日常生活に支障が出るほどの痛みやだるさを抱える人がいること。

不妊治療は、身体だけでなく、予定の調整や気持ちの揺れも含めて負担が大きいこと。

育児は、仕事が終わってから、さらに仕事が始まるようなものだと感じる人がいること。
また、朝、子どもを送り終えて、やっと仕事で自分の時間をもてる!と話す方もいること。

朝、子どもを起こし、食べさせ、着替えさせ、保育園へ送る。
そこまで終えて、ようやく職場に向かう。
彼にも子どもはいるのに、パートタイムで働いている妻にほぼ任せていて、その困難さや多忙ぶりを、具体的には想像できていなかった。

女性講師が、更年期について話した時だった。
ホットフラッシュ
眠れなさ
気分の落ち込み
指の痛みや変形など…
日常生活に影響が出る方もいます。

会場の後方で、一人の管理職が苦笑いしながら言った。
「うち、妻が絶賛更年期中で……反抗期の息子とも毎日戦ってます」
少し笑いが起きた。

けれど、その笑いは、軽いものではなかった。
「そうか。家の中にも、見えていなかった負荷があるのかもしれない」
杉本は、そんなことを思った。

会社では管理職として部下を見ている。
でも家に帰れば、自分もまた、家庭の中の一人だった。

仕事の場で見えていなかったことは、
家庭の中でも見えていなかったのかもしれない。

“女性特有の不調”という一言で済ませられるものではないのだと知った。
会場には、40代以上の男性管理職も多かった。

ある人が、小さく言った。
「うちも、こんな感じだったのかな」
別の人がつぶやく。
「帰ったら、妻に聞いてみようかな」
その言葉を聞きながら、杉本も思った。
自分も、聞いてみたい。
妻に。
そして、安西に。

講師は、最後にこう話した。
「共通して言えるのは、人によって状態も考え方も違うということです」
「女性だからこう、子どもがいるからこう、と決めつけないこと」
「普段からコミュニケーションを取って、今どんな状態なのか、どうしたいのかを聞ける関係性を作っておくこと」
「言いやすい雰囲気を、日頃から作っておくこと」
「そして、どうしてよいか分からない時は、決めつけずに聞くことです

杉本は、メモを取りながら、胸の奥が少し重くなるのを感じた。
無理をさせないことばかり考えていた。
でもそれは、
「本人の望みを聞いた」
ことにはならなかった。
守ることと、決めることは違う。
そのことに、遅れて気づいた気がした。


3. 本当は、どう働きたい?

数日後。杉本は、安西千尋に声をかけた。
「少し時間いい?」
会議室に入ると、千尋は少し緊張した様子で椅子に座った。

杉本は、すぐには話し始めなかった。
何から言えばいいのか、少し迷っていた。
やがて、静かに口を開いた。
「この前、管理職向けの研修に出てさ」

千尋は黙って聞いていた。
「俺、多分、“配慮しているつもり”だったんだと思う」

千尋の表情が少しだけ動いた。
「不妊治療の時も、妊娠中に入院した時も、本当に心配だった。戻ってきてくれた時も、無理させたくなかった」
杉本は、言葉を選びながら続けた。
「でも、俺は、千尋さんが本当はどう働きたいのかを聞いてなかった」

会議室が静かになる。
千尋は、少し視線を落とした。
杉本は言った。
「本当は、どう働きたい?」

その質問を聞いた瞬間、千尋は胸の奥が少し詰まった。
ずっと待っていた言葉だった気がした。
すぐにうまく答えられなかった。
でも、少しずつ話した。

「前とまったく同じ働き方ができるとは思っていません」
「急な呼び出しもあるかもしれないし、夜も前みたいには動けません」
「でも、クライアントと話す仕事には戻りたいです」
「自分が積み上げてきたものが、全部なくなったみたいに感じるのが、つらかったんです」

杉本は黙って聞いていた。
千尋は続けた。
「後方支援が嫌なわけじゃありません」
「でも、“あなたはもう前線じゃなくていい”と言われたように感じました」

杉本は、小さく息を吐いた。
「そう聞こえていたんだな」

千尋は頷いた。
「はい」

その一言は、責めるためのものではなかった。
ただ、やっと言えた言葉だった。

杉本も話した。
「安西さんがいない間、他のメンバーも頑張ってくれていた。だから、その人たちの経験も大事にしたかった」
「それに、正直、また無理をさせて倒れたらどうしようと思っていた」

千尋は顔を上げた。
その言葉に、杉本の心配が本物だったことが少し見えた。
二人は、すぐに答えを出したわけではなかった。

担当を一気に戻すのではなく、まずは一部のクライアント対応から始めること。
定例会議には戻ること。
急な対応が必要な案件は、必ずペアで持つこと。
保育園の呼び出しがあった時の引き継ぎ方法を、事前に決めておくこと。

小さなことを、一つずつ話した。
以前とまったく同じには戻れない。
でも、何もかも手放す必要もなかった。
「無理しないで」
その言葉が、優しさになる時もある。
でも時々、その言葉は、相手の望みを聞かないまま、道を狭めてしまうこともある。

本当に必要なのは、きっと、
「無理しないで」
だけではなく、

「あなたは、どうありたい?」

と聞くことなのかもしれない。
千尋は会議室を出たあと、久しぶりに、以前担当していたクライアントの名前が入った資料を開いた。
すぐに何かが変わるわけではない。

帰れば、また夕飯があり、お風呂があり、寝かしつけがある。
夜中に起きる日も、きっとまだまだ続く。
でも、少しだけ息がしやすかった。
戻る場所は、前とまったく同じではない。
それでも。
もう一度、自分の足で立つ場所を、作り直していけるかもしれないと思った。


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公開日:2026年5月15日
※本記事は、筆者の研修・対話支援の経験をもとに、職場で起きる関係性のすれ違いを物語形式で再構成した読み物です。無断転載・複製はご遠慮ください。