
この物語について
組織の中では、「もっと見てほしかったこと」と、「本当は直してほしかったこと」が、うまく言葉にならないまま、すれ違ってしまうことがあります。
強く言えば関係が悪くなりそうで、黙っていれば、少しずつ苦しくなる。
この物語は、そんな“言葉になりきらなかった気持ち”をテーマにしたストーリーです。
誰かを責めるためではなく、「相手には何が見えていたのか」を、少しだけ想像しながら読んでいただけたら嬉しいです。
1. 手応えのある提案書
朝のオフィスは、いつも通り静かに始まった。
チャットの通知音、キーボードを叩く音、誰かが淹れたコーヒーの香り。週明けの少し重たい空気の中で、入社5年目の佐伯は、自分の席に座るなり、前週から進めていた顧客向け提案書を開いた。
今回の提案は、彼にとって少し手応えのある仕事だった。
顧客との打ち合わせでは、担当者が何度か言葉を選びながら、「現場が使い続けられる仕組みにしたいんです」と話していた。単に新しい機能を入れたいのではなく、導入後に現場が迷わず運用できること。その言葉が、佐伯の中に残っていた。
だから提案書にも、システムの機能一覧だけではなく、運用後の使いやすさや、現場担当者がつまずきやすいポイントを入れた。
今回は、いつもの社内フォーマットをそのまま使うのではなく、顧客の話の流れに合わせて構成も少し変えた。最初に現場の困りごとを置き、その後に解決案と導入後の流れを示す。社内で見慣れた順番とは違うかもしれない。けれど、今回の顧客にはこの流れの方が伝わる。
佐伯はそう思っていた。
「一度、見てもらえますか」
佐伯は、上司の村瀬に声をかけた。
2. 戻されたフォーマット
村瀬は42歳。SEとして現場を長く経験し、今は複数案件を見る立場にいる。技術の話も顧客折衝も分かる人だった。現場が好きで、細かいところまで目が届く。だからこそ、若手からすると少し緊張する存在でもあった。
村瀬は画面に目を通しながら、しばらく黙っていた。
「うーん……」
その一言だけで、佐伯の胸のあたりが少し固くなる。
「まず、フォーマットはいつもの形に戻した方がいいな。情報の優先順位も、社内の標準フォーマットに合わせた方が確認しやすい。あと、このあたり、根拠が少し弱い。顧客に出すなら、もう少し整理しないと通らないと思う」
村瀬の言葉は、決して怒鳴るようなものではなかった。むしろ、かなり抑えた言い方だった。
けれど佐伯には、その言葉が思った以上に刺さった。
いつもの形に戻した方がいい。 根拠が弱い。 整理しないと通らない。
たしかに、標準フォーマットに意味があるのは分かる。社内確認もしやすいし、上層部や決裁者に説明する時には、型が整っている方が伝わりやすいのだろう。
でも、今回は顧客の話の流れに合わせて、あえて構成を変えたつもりだった。
その意図には、何も触れられなかった。
「……分かりました。直します」
佐伯は短く答えた。
その声に、納得はあまり乗っていなかった。自分でも、それは分かっていた。けれど、その場で何かを言い返せば、面倒な空気になる気がした。
村瀬も、その反応には気づいていた。
「いや、別に全部ダメって言ってるわけじゃなくて」
そう言いかけて、村瀬は言葉を飲み込んだ。
どこまで言えばいいのか、いつも迷う。
自分が若い頃なら、もっと厳しく言われていた。資料が見にくい、論点が甘い、顧客に出せるレベルじゃない。そんな言葉は日常的に飛んでいた。それでも、自分たちは必死に食らいついて覚えてきた。
でも、今は違う。
強く言えば、萎縮させるかもしれない。気を遣いすぎれば、何も伝わらない。言葉を選ばなければいけないことは分かっている。けれど、選びすぎると、自分が何を伝えたいのかさえ分からなくなることがある。
最近の村瀬は、仕事でも家庭でも余裕がなかった。
小学生の子どもがいて、妻も同じ会社でSEとして働いている。朝は子どもの支度を手伝い、夜はどちらが早く帰れるかを夫婦で調整する。仕事が終わらない日は、帰宅後にもう一度パソコンを開くこともある。
若手を育てたい気持ちはある。 でも、自分にも余裕がない。 そのうえ、言葉選びまで常に慎重でいなければならない。
正直、疲れることもあった。
佐伯はその後、提案書を修正して提出した。
社内標準のフォーマットに戻し、指摘された根拠資料も足した。村瀬の確認も通り、提案書は顧客に提出された。
3. 冷めていく関係
表面上は、仕事は進んだ。 しかし、二人の間には小さな温度差が残った。
数日後、佐伯の耳に、顧客側からの反応が入ってきた。
「佐伯さんが最初に作ってくれていた、現場の困りごとから入る流れは分かりやすかったですね。最終版は少し社内向けの資料っぽく見えて、現場担当者には伝わりにくいかもしれません」
その言葉を聞いた時、佐伯の中にあった引っかかりが、はっきりと形を持った。
やっぱり、あの構成には意味があったんだ。 顧客のことは、ちゃんと見えていたんだ。
そう思う一方で、村瀬の顔が浮かんだ。
あの人は、そこを見てくれていなかった。
自分が顧客の声を拾ったことよりも、社内の型やいつものやり方を優先された気がした。もちろん標準フォーマットが大事なのは分かる。けれど、そこだけを言われると、自分の考えや工夫まで否定されたように感じた。
それから佐伯は、村瀬に対して少しずつ距離を取るようになった。
質問は必要最低限にする。相談も、できるだけチャットで済ませる。打ち合わせでは頷くけれど、心の中では「本当に分かっているのかな」と思っている。
気持ちは顔に出やすい方だった。
村瀬も、それには気づいていた。
最近、佐伯が自分に対して冷めている。言葉の端々に、どこか疑うような空気がある。こちらが指摘をすると、納得したように見せながら、どこか壁を作る。
村瀬は、それを「若手が反抗的になってきた」と捉えそうになった。
でも、同時に自分の中にも、言葉にしづらい感情があった。
何かとつっかかってくるように感じる。 正直、やりにくい。
けれど、その奥には、少し寂しさもあった。
ちゃんと育てたいと思っている。 自分の経験を押しつけたいわけではない。 ただ、顧客に出す資料として、通る形にしてほしかった。
標準フォーマットに戻したのも、佐伯の工夫を否定したかったからではなかった。顧客の現場担当者だけでなく、その先にいる上長や決裁者にも説明しやすい資料にしたかった。提案が通るためには、内容だけでなく、社内で回覧された時に理解される形も必要だと思っていた。
けれど、その意図を佐伯に伝えた記憶はなかった。
それだけだった。
けれど、その「それだけ」が、相手にはどう届いたのか分からない。
周囲から見ても、二人の関係は少し冷めて見えていた。 必要な会話はする。仕事も止まってはいない。けれど、そこにあるのは、最低限のやり取りだった。
4. 見えていなかった背景
そんなタイミングで、部署全体を対象にした研修が行われた。
テーマは、関係者マップと合意形成。
研修のタイトルは、 「関係者を動かす力を高める 関係者マップ × 合意形成 実践研修」。
佐伯は最初、正直なところ、少し身構えていた。
また、上司や顧客をどう説得するか、みたいな話なのだろうか。そう思っていた。
村瀬も同じだった。
合意形成は大事だ。関係者を整理することも必要だ。けれど、日々の仕事に追われている中で、どこまで実践できるのか。そんな少し冷めた気持ちもあった。
しかし、研修の冒頭で講師が話した言葉は、二人の予想とは少し違っていた。
「合意形成は、相手を思い通りに動かす技術ではありません」
講師は静かにそう言った。
「相手が何を大切にしているのか。何を不安に感じているのか。そして、自分は何を分かってほしかったのか。それを見に行くことから始まります」
佐伯は少しだけ顔を上げた。
村瀬も、手元の資料に視線を落としながら、その言葉を聞いていた。
最初のワークは、「動かなかった経験の棚卸し」だった。
うまく進まなかった場面を一つ選び、その背景を「感情」と「利害」に分けて整理する。
佐伯は、提案書の件を書いた。
表向きには、資料の修正指摘。 けれど、感情の欄には、こう書いた。
「顧客に合わせて考えたことを、見てもらえなかった」
書いてみて、自分でも少し驚いた。
自分は、フォーマットを戻されたことに腹を立てていたのだと思っていた。でも本当は、それだけではなかった。
見てほしかったのだ。 顧客の言葉を拾おうとしたことを。 その相手に合わせて、伝える順番まで考えたことを。
一方、村瀬も同じ場面を選んでいた。
彼が感情の欄に書いたのは、 「否定したいわけではなかった。提案が通る形にしたかった」 という言葉だった。
利害の欄には、 「顧客の現場に伝わる資料にしたい」 「決裁者にも説明しやすい資料にしたい」 「若手に提案書の型を身につけてほしい」 と書いた。
そして、不安の欄で手が止まった。
しばらく考えてから、村瀬はこう書いた。
「強く言うと傷つけるかもしれない。弱く言うと伝わらないかもしれない」
その言葉を見た時、村瀬自身も少しだけ胸が詰まった。
ああ、自分はずっと迷っていたのかもしれない。
次のワークでは、関係者マップを作った。
上司、若手、顧客、現場担当者、決裁者、他部署。関係者を書き出し、それぞれの期待と不安を整理していく。
佐伯は、顧客の現場担当者の欄に「現場で使いやすい仕組みにしたい」と書いた。
村瀬は、顧客側の決裁者の欄に「社内で説明しやすい提案書がほしい」と書いた。
二人は同じ顧客を見ていたはずだった。 けれど、見ていた相手が少し違っていた。
佐伯は、現場担当者の困りごとを見ていた。 村瀬は、その提案を通すための決裁者や社内説明を見ていた。
どちらかが間違っていたわけではない。
ただ、二人はそれを互いに説明していなかった。
最後のワークで、講師は小さなカードを配った。
「今、頭に浮かんでいる相手に向けて、言葉にしていなかったことを書いてみてください。相手を責める言葉ではなく、自分が何を大切にしていたのか、何を見てもらいたかったのかを書きます」
佐伯は迷った。
最初に浮かんだのは、村瀬への不満だった。 もっとちゃんと見てほしかった。 型に戻す前に、なぜこの流れにしたのかを聞いてほしかった。
けれど、少し時間を置いてから、カードにこう書いた。
私は、顧客に合わせて構成を考えたことを見てもらいたかったです。けれど、提案を通すためには、現場担当者だけでなく、決裁者にも伝わる形にする必要があったのかもしれません
書き終えた時、佐伯は少しだけ肩の力が抜けた。
村瀬もまた、別のカードに向き合っていた。
私は、君の工夫を否定したかったわけではありません。提案が通る形にしたかった。でも、最初に顧客に合わせて考えた意図を聞く言葉が足りなかったと思います
それを書いたあと、村瀬はしばらくペンを置けなかった。
その言葉は、佐伯に向けたものでもあり、自分自身に向けたものでもあった。
ペアで共有する時間になった。
偶然なのか、意図的なのか、佐伯と村瀬は同じグループの中でカードを読み合うことになった。
佐伯が先に読んだ。
声は少し小さかった。
「私は、顧客に合わせて構成を考えたことを見てもらいたかったです。けれど、提案を通すためには、現場担当者だけでなく、決裁者にも伝わる形にする必要があったのかもしれません」
村瀬は、黙って聞いていた。
その言葉を聞いて初めて、あの時の佐伯が何に傷ついていたのかが分かった気がした。
次に、村瀬がカードを読んだ。
「私は、君の工夫を否定したかったわけではありません。提案が通る形にしたかった。でも、最初に顧客に合わせて考えた意図を聞く言葉が足りなかったと思います」
佐伯は、顔を上げた。
村瀬が自分のことを否定したかったわけではない。そう言葉で聞いて初めて、少しだけ見え方が変わった。
すぐに何かが解決したわけではない。
佐伯の中には、まだ納得しきれていない部分もあった。村瀬の中にも、若手との関わり方への迷いは残っていた。
けれど、少なくとも、あの提案書をめぐる出来事は、二人にとって少し違う意味を持ち始めていた。
若手から見ると、上司は分かってくれない人。 上司から見ると、若手は型を軽く見ている人。 そう見えていた関係の奥に、別の景色があった。
5. 「おはようございます」
翌朝。
佐伯はいつもより少し早く出社した。
村瀬の席の近くを通る時、一瞬だけ迷った。
昨日までなら、軽く会釈だけで通り過ぎていたかもしれない。
でも、その日は違った。
「おはようございます」
声は大きくなかった。
村瀬は一瞬だけ顔を上げ、少し驚いたようにしてから、 「おはよう」 と返した。
それだけだった。
何かが劇的に変わったわけではない。 お互いに急に本音を話せるようになったわけでもない。 提案書の指摘が、これからなくなるわけでもない。
けれど、昨日までとは少し違う空気が、二人の間に流れていた。
関係性は、どちらかが悪いだけで崩れるわけではない。
見ていたものが違ったこと。 大切にしていたことを言葉にしなかったこと。 相手の背景を見に行く前に、判断してしまったこと。
そうした小さな積み重ねで、少しずつ距離が生まれていく。
けれど同じように、関係性は小さな一言から動き始めることもある。
「おはようございます」
たったそれだけの言葉が、次の会話の入口になることがある。
そして、その入口は、相手を変えようとする前に、 自分が見ていた景色と、相手が見ていた景色の違いに気づくところから始まるのかもしれない。
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公開日:2026年5月10日
※本記事は、筆者の研修・対話支援の経験をもとに、職場で起きる関係性のすれ違いを物語形式で再構成した読み物です。無断転載・複製はご遠慮ください。